ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝の感想
「見るタイミングで評価が変わってしまう映画だ。」
私のヴァイオレットエヴァーガーデン外伝の感想です。
2019年9月というタイミングで劇場に足を運べば京アニからの鮮明なメッセージを感じる事ができるでしょう。ところが、これを数年後とか10年後にみたら違う感想をもっただろうなぁと思えます。
京アニであんな事件があって亡くなられた方たちの名前がエンドロールにでると聞いて、
「これは見にいかねばいけない。」
そう思いました。
京アニのアニメは好きでしたが、それほど熱心なファンという訳ではありません。
ただ、火災の話をきいて寄付をしにいこうと思える程度には好きだったようです。
これは自分でもちょっと驚く行動でしたね。寄付なんていう偽善行為は自己肥大をおこしてしまうだけだなんて考えていたからです。
まぁ、自己肥大ってのは、
「自分は立派で褒められる行動をしている。」
と感じて悦に浸ることですかね。
で、京都のマンガミュージアムに寄付に行ったのですが、その時にテレビ局がやってきていて取材を受けました。カメラを向けてインタビューされたのですが、泣き崩れそうになってしまいました。
これまた自分でえらく驚きました。
どうも、自分が好きだった物の作り手の人たちが思いがけない事で亡くなられたということに相当なショックを受けていたみたいですね。
寄付も、
「遺族の人たちに私のようなファンの気持ちが届けば、ほんの少しだけも気持ちが楽になってもらえるのじゃないか。」
そういうつもりでしたからね。
ちなみに、インタビューの様子は放送には使われなかったようでほっとしています。
それで最初に戻るわけですけど、京アニの映画が公開されるときいて、
「これは見にいかねばいけない。」
と思ったわけです。
ヴァイオレットエヴァーガーデンは見たことがありませんでした。
「外伝というからには、本編を見ておかなくては面白さがわからないだろう。」
というわけでNetflixに登録して見てみる事にしました。1日で全部見ちゃって翌日に映画館という流れです。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは主人公の名前です。
孤児だったのですが兵士として教育を受けると天賦の才を発揮しました。大人っぽくみえますが、作中ではおそらく10代でしょう。戦時中の表現が何箇所かありますが、12~14歳程度の雰囲気で、戦後1~2年程度しか経過していないと思われるからです。
兵士として非常に優秀であるがゆえに彼女は人としてではなくモノとして扱われました。それゆえ彼女は自分の気持ちを表現するすべをもたない戦闘マシーンと化してしまっていました。
ところが、彼女の上官になった人物が彼女には人として接しました。
戦争の帰趨を決する戦闘で、その上官が亡くなるのですが、その時に、ヴァイオレットに、
「愛している。」
と、伝えました。
しかし、ヴァイオレットには愛しているということがどういうことか理解できません。
ヴァイオレットは
「愛している。」
という言葉の意味を理解できるようになるために自動手記人形、ドールという仕事につきます。人形と表現するのは他人の手紙を扱うという意味でプライヴァシーを守るという意味をもたせるための呼称ではないかと思われます。ヴァイオレットは戦闘で両手を亡くしており義手なのですけど、その義手で手紙を書くということも含ませているようですし、ストーリを追いかけるとドールと呼ぶことの意味が他にもあることがわかります。様々な意味が自動手記人形、ドールという言葉に含まれているようです。
このヴァイオレット・エヴァーガーデンには
「手紙にすると気持ちが伝わるのです。」
「届かない手紙はない。」
という2つのテーマがあります。
このテーマをそのまま映画にしたのがこの外伝といえるでしょう。
構成もこのテーマにそった2幕構成です。本編は、この2つのテーマを中心に据えつつ、ヴァイオレットが手紙の代筆を通じて人間らしさを理解していゆくという話です。
外伝としたのは、この2つのテーマをひたすら表現する事に注力した内容だからじゃないでしょうか。映画で2幕構成なんて普通はまとまりませんからやらないはずで、だからこその外伝なのだろうと思われます。
実際、1幕と2幕のつなぎがうまくは仕上がっていませんでした。
だから、本来は1,2幕をつなぐ、3幕目があると映画としての完成度はあがったと思います。しかし、外伝とすることで3幕目を用意しないという選択をしたのでしょう。
この映画は、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが好きな人が、箸休めというか、ヴァイオレットのちょっと違った一面が見れるというような見方をする映画だったと思うのです。だから、たぶんヴァイオレット・エヴァーガーデンが好きだという人でなければ、いまひとつ楽しめないという内容の映画かもしれません。
ところが、火災で多くの人が亡くなられてヴァイオレット・エヴァーガーデンのテーマに京アニの人たち存在が載っかってしまいました。もしかしたら京アニはそんな事を考えてはいなかったかもしれません。でも、見る側がそういう風にみる映画にしちゃったというか、そういう風にしかみれない映画になってしまいました。
映画が終わった時に、
「この映画が普通に公開されて、それを見に来たのだったらどういう感想をもっただろうか?」
そう考えてしまう自分がいましたね。
映画の評価や感想というのは自分の立ち位置でガラリと変わってしまうものではありますが、強制的に立ち位置を決められてしまったとでもいうのでしょうか。火災のせいで、この映画の本当の魅力的な部分が見ることができなくなってしまっていたのが残念でなりません。だから、何年か過ぎて、ニュートラルになれた時にもう1回ちゃんと見たいとそう思うのでした。
髪の毛の書き方が京アニらしいと、そんな事を感じるヴァイオレット